岐阜城は、6回落城している

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難攻不落といわれる岐阜城ですが、なんと36年間に6回も落城しております。
それだけ重要な城だったともいえますが、意外と多い、、、。
全て重要な事柄とリンクしています。

永禄7年(1564年) 竹中半兵衛・安藤守就占拠事件

城主:齋藤龍興→竹中半兵衛
竹中半兵衛と安藤守就が共謀して、稲葉山城を一時的に占拠した事件。
二人は半年ほど占拠しましたが、龍興に返還しました。
龍興の愚政に対しての懲らしめだったとか。
なお、この時、信長から城を明け渡すように誘いがありましたが、拒否しています。
この事件をきっかけに龍興の家臣団が離反しはじめ、後の「稲葉山城の戦い」につながります。

永禄10年(1567年) 稲葉山城の戦い

齋藤龍興→織田信長
織田信長が齋藤龍興を破った攻城戦。
戦後は、岐阜城という名前を変え、天下布武を使うようになった、信長が大物になったきっかけとなり、岐阜城としても、大きく変わりました。
木下藤吉郎が出世するきっかけともなりました。
落城したのは永禄7年(1567年)ですが、信長が小牧城に移った1563年頃から攻防が始まっています。
何年もかかり、簡単ではなかったようですが、
竹中半兵衛と安藤守就が信長に協力したところから、いっきに攻め落としました。
なかなかここだけでは説明ができないので、またの機会に詳細を書きます。

天正9年(1582年) 本能寺の変・岐阜城占拠

城主:織田信忠→斎藤利堯
京都で信忠が討たれたため、斎藤利堯が岐阜城を占拠しました。
こちらについては、詳しくは別ページに書いてあるので、そちらを読んでください。

天正9年(1582年) 三法師強奪事件

城主:織田信孝
特に事件名もない事件なので、勝手に事件名を付けました。
「清州会議」から半年後。
会議の結果を不服に思った秀吉が、岐阜城を包囲。
織田信孝から三法師と、さらに信孝の母親と子供まで強奪していきまいた。
あまり知られていない事件ではありますが、主従関係が織田と秀吉が逆転する契機になりました。

天正10年(1583年) 賤ヶ岳の戦い・岐阜城戦

城主:織田信孝→池田元助
本戦は賤ヶ岳と北ノ庄城でしたが、岐阜城も戦場となりました。
秀吉と対立していた信孝は、柴田勝家を支持し、挙兵します。
しかし、本戦が始まる前に稲葉一鉄が岐阜城へ出向き、一度は降伏します。
その後、賤ヶ岳で本戦が始まりますが、信孝は再挙兵。
秀吉にプレッシャーを与えたものの、先に北ノ庄が陥落しました。
そして、信雄に包囲され、後ろ盾を失った信孝は降伏し、開城し、切腹する事に至りました。
この後は、岐阜城は織田家から離れ、池田元助が城主となります。

慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦い・岐阜城戦

城主:織田秀信→廃城

「関ヶ原の戦い」の1ヶ前に起こった前哨戦。
城主は、三法師が成人した織田秀信です。こんなところからも、因果関係を感じます。
8/23、清州城からの部隊が、木曽川を渡り、岐阜城の攻撃開始をします。
先鋒隊は、元城主である池田輝政。
池田隊は、瞑想の小径から本丸まで、いっきに進みました。
福島隊は七曲りから、他隊もそれぞれ登山道から進み、包囲されました。
激しく抵抗しましたが、結局、1日で岐阜城は陥落しました。
関ヶ原での本戦後、秀信は高野山に送られ、岐阜城は廃城となりました。
この件についても書いていると長くなるので、またの機会に、あらためて書きますね。
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稲葉 恒平

岐阜お城研究会事務局長、マーケティング
岐阜市生まれ、岐阜市育ち。 稲葉一鉄系傍流の末裔。 武将の末裔の家系だけに、幼い頃から歴史好き。小学生の時に大河ドラマの「信長」や「春日の局」を見て、岐阜が歴史の中心だと考えました。 大学~30才頃までは東京に出ていましたが、逆に岐阜の歴史の深さを感じました。いつもお城が見える岐阜市の風景は素晴らしい、と感じながら岐阜市で生活しています。 本業はフリーのカメラマンをしてますが、こうして文章を書くのも好きです。

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